昭和47年10月05日 朝の御理解
御理解 第11節
「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ。」
教祖生神金光大神様が拝まれた神様、また現わされた神様と言うてもよいかもしれませんが、神は天地の守りじゃから、離れる事は出来ぬと言われる神様なのです。金光様の御信心は、ズバ抜けて素晴らしいという事と、一つ間違えたら低級な信心という、両面を持っておると思うですね。ですから私共が、金光様金光様とこう言っておるけれども。金光教とは、そんな低級な信心かと、言われたり思われたりするような内容だけの信心で終ったら、大変つまらん話です。
内容には金光教でなからなければ、説き得ない。教祖でなからなければ、説き得ておられない。どんな大宗教家が色々輩出致しました。沢山出来られました。けれども教祖金光大神が、説かれておるところ迄、到達しておられない。それはどう言う様な事かと言うと、例えば昨日の朝の御理解を引用致しますと「落ちるこの身は 十八願のうちと思えば 危な気はなし」と、言わば大変な悟りなんです。それは地獄に落ちたところで、やはり名前こそ違うけれども、まあ天地の親神様という意味でしょうね。
親神様の懐の中だと、こう言うのです。もうそうどころじゃないです。「吉野山 踏み迷うても 花の中」。この悟りというものは、私は大変な悟りだと思うのです。同じ意味合いなんですね言うならば。そこに自分が安心出来ると言うか、自分が安易な気持ちになれるという、そこまでは事実です「善し悪しを捨てて 起き上がり小法師哉」と同じです。善し悪しを捨てる、我情我欲を捨てる。そこにです一つの悟りがある。自分が言うならば安心立命と言いますかね仏教的に。
安心の出来れる世界がある訳である。教祖の神様はそういう世界の、もう一つ向こうを説かれたですね。言うならば、親神様の本当の心の奥を把握されたという事です、教祖金光大神は。御理解十三節に「神は向こう倍力の徳を授ける」と仰るでしょう。例えば私共がです、お道の信心でです。我情を捨て我欲を捨てて、言わば信心の道をまっしぐらに進ませて頂いたら、吾身は神徳の中に生かされてあるという程しのおかげが感じられ、おかげが頂かれるのです。
私は金光教の信心の素晴らしいところは、そこだと思うです。神様の心の奥に触れておられる。だからその神様は、どういう方かと言うと、神は天地の守りじゃから、離れる事は出来んと仰せられる神様。親が子供の上に思いを一時でも、外す事が出来ない様に「寝ていても、団扇の動く親心」ですか。寝とる間でもです。やはり子供の上にこうやって、ハエやら蚊を追うておるというのが親心です。親がいつも子供を守りしておるというのが親の心です。だから私共は天地の親神様と、こう申し上げる。
その天地の親神様というお方は、どういう方かと言うと、神は天地の守りじゃから、離れる事も出来んという神様なんだ。その神様は本当のところへ、本当な核心に触れていったら、神は向こう倍力の徳を授けるとおっしゃる神様なんです。その倍力の徳を受けたら、どういう事になるですか。人間の幸せの条件の全てを与えて下さる神様なんです。これは、他の宗旨宗派では、絶対に説いてないところです、ここは。ですからおかげが低級だ、おかげが可笑しいと言うたら、成程それはその通りです。
金光教の信心は、程度が低いという事になるでしょう。だからおかげおかげで一生、金光様の信心しとるとするなら、やっぱりあなたの信心は低級だと言われても仕方がないです。金光教の信心はですね、お取次という特別な働きがあるもんですから、お取次の徳によって、おかげを受ける事が出来るんです事実。これは良い事か悪い事か、実際に分からん位に感ずるですね私は。そのお取次を頂いて、お取次の徳によって、おかげを受けるもんですから、そのおかげだけに便乗してしまうんです。
そして一生金光様を拝んだという事になって、あの世にも持ってゆける、この世にも残しておけるというようなものは、何一つ、残してもいない、持って行ってない証拠に、御霊として助かってもいなければ、後に、子供にも、孫にも伝える事が出来てないで、お父さんの時には、あんな熱心な金光様の御信者じゃったのに、子供さん、孫さんの時には、もう跡もないというような結果が沢山あるという事です。
だから、金光教の信心はね、本当に、頂き方では、ズバ抜けて素晴らしいという事と同時に、頂き方では、本当に金光教の信心は程度が低いと言われても仕方がないような内容を持っておるという事ですから。私共は本気で、神は向う倍力の徳を授ける、とおっしゃる、向かい方をしなければいけないという事です。だから、おかげに甘んじておってはいけない。いわゆる、本当な信心と申しましょうか。真の信心を目指させてもらい。真の信心を頂くからこそ、神様の御信用が頂けるのです。
それを、如何にも、尊い事のようにですね。この世ではおかげを受けなくても、あの世で極楽に行けるとか、というような、それを、高度な信仰だというような、誤った見方をして、それで一生、終始してしまうというような信心が沢山あります。言うなら、私にすれば、何か自分だけは、とてもよか信心しておると思うて、すましかえっておる。そしておかげは頂けない。
ここの、ある御信者さんの御親戚になる方が、キリスト教の宣教師をしておられて、大変頭のよい人ですから、キリスト教の本を、沢山書かれたりしております。その方がちょうど里に帰って来て、十何年も前の話です。そして、家に帰って来て、母親、兄弟達が、みんな、当時の椛目に参って来ますから、金光教の信心が程度が低い。本当の信心じゃないから、どうでもキリスト教になれと言って、一心に説かれる。
とうとう椛目の私の所迄もお見えて、そして私に、それは、素晴らしい文句を羅列しながらですね、伝導する時のちゃんと、決ってる訳です、話というものは。だからそれは素晴らしい、まるきり金光様のお話のごと素晴らしいですねと言うて、私は聴きました。その人が、久留米の方の方ですが、久留米におられる間に、自転車を盗難にあったんです。そしたら、慌てだして、買うたばっかりの、その当時は、相当金を出して買ったばっかりですから、警察に頼むやら、えらい心配された訳です。
そるけんあんたがそげん言よるけん、そんなら、椛目の親先生にお願いしてやろうかち。出てくるならお願いして下さいち言うことじゃった。それからお願いに見えましたらね、善導寺の人が盗っとったと言う。そしたらその人が、善導寺からわざわざその人の家に持って来ましたです。今岸饅頭屋ちありますたい。善導寺の総代さん。そこの家に持って来たんです。だからその人方から連絡があったんです。と言う様な不思議なおかげを頂いたんです。どうですかそういうおかげが頂けれるです金光教の信心は。
だから、どんなに偉そうに、どんなに美言美句をもってしておっても、又、それに陶酔しておってもです。人間の、いよいよの時には、やっぱり助けてもらいたいのが本音なんです。けれども、御利益を言うたら、低級なように言うけれども。だから、金光教の信心もですよ。本当の所が分かったら、お取次の御徳によって助かって行くとか、おかげを受けるとか、盗られた自転車が出て来るとか言ったような、おかげとかに、もし、終始するならば、御利益の亡者としか言われても仕方がないです。
けれども、本当のものを頂いて、その本当の信心を頂いて、信心に寄り添う影のようにあるのが、金光教の信心です。神は天地の守りじゃからと仰る事はね。神は一人ひとりの氏子の守りじゃからと言うことなんです。だから、その気で、神様の御守護を受けておるんだと言う事実を把握して、その神様に対する、神恩報謝の生活を、真の道を聞きながら、渡りながら、歩かせて頂きながら、辿らせて頂いたらです。絶対のものとして、影が伴うのが当たり前なんです。只、悟りすましておると言うだけではない。
昨日申しますように、やはり地獄より、極楽の方がよい。いくら花の中であったって、迷うとったんじゃつまらん。やっぱり信一筋にこれがこの世の極楽であろうかと思われる程しのおかげの中に、一生を終らして頂いてしかもその徳を力を、あの世までも持って行けれると言う方が良かろうがと言うのが、昨日の御理解でしたよね。昨日は神愛会でしたから、私の話を先生方にみんな聞いて頂いた事の中に、一番初めにこの手紙を、この葉書を、皆さん読んでごらんと言うて、読んでもらいました。
ある御信者さんの娘さんが、ある宗教に導かれて、それが若い者が本当に魅力を感ずるような、やはり何ものかを持っている訳ですね。兎に角親も捨て兄弟も捨てて、千葉の方の、今現在、その信心の伝導をしておられます。お父さんが呼びに行かれましたけれども、向こうがとうとう出さん。自分も会わん恐らく影から見たのは見たでしょう。葉書の中に、お父さんがやつれておられたり、年を取られた姿を見てから、その後に泣いたと。けども今暫く待って下さい、必ず親孝行もします兄弟孝行もします。
今そういう素晴らしい道を、自分は歩いておるからと言うのです。それで昨日朝参りをしてから、二度目のお参りをされた時に、お母さんが手紙を持って見えましてね、手紙やら葉書が来ておるのを。私はそれを見てから感心しました。これならば大抵な程度の低い信心ならですね、お父さんと話し合って、こりゃ私共も娘の信心に入ろうじゃんのち言うごと、素晴らしいと言うて、私はみんなに話した事でした。本当にほろりするようなですね、また自分自身もいよいよ善なる方向へですね、この言葉を借りると。
素晴らしい人間になって、世界世の中にお役に立つ人間になる事に、一生懸命なっておるのですから、何処が悪いのかとこう言うのです。また事実そうなんです。この宗教の最新式と言うか、最近の新興宗教なんですけども。本部が朝鮮の人らしいですね、その会長と言うのが。それが日本に移って来て、それこそ色んなパンフレットなんかを配るのに、絶対年寄りには配らんそうですよ。年寄りち言うが壮年なんかには。若い人だけでないと、駄目だと言う訳です。色んな観念に縛られてしまっていますから。
私共もそうです。私の信心をです私共よりか、先輩の先生方に分かって貰おうとは、さらさら思いません、又分かりゃしませんです。自分達の頂いて来ている事を、本当だと思い込んどるのですから。ですから私は私共よりか後輩の方達にですね。合楽の信心は分かって貰いたい。言うなら若い先生達に分かって貰いたい。先日から二十代前後の青年会の方達ばっかりで組織しておる、ここの黄楊会の方達が入殿を致しました。
十何名の人達が、黒衣に身を包んで、そして朝から晩まで一生懸命、信心の稽古をするという事なんです。私は黄楊会の方達が、嬉々として生き生きとしてですね、信心の神習をやっている姿を見てから、本当に素晴らしい有難いと思いました。そして私のお話をする一時間半余りの時間の時に、みんなに聞いたんですよ。どうですかみんな黒衣を着てから、感じはと言う訳です。それが先生一枚黒衣が足りなかったのですね。十何枚要るのに、一枚足りなかったから、それが腹かいたち言う訳なんです。
もうその位に黒衣に対すると言うかね、この黒い奉仕着に対する、憧念心を燃やしている訳です。言うならば、私の信心に憧れておると言う事なんです。それで申しました。今の金光教の教会に、若い者を、これだけ先導すると言うか、煽るというか、そういう内容を持った教会が他にあるじゃろうかと言うて、私も思いました、話もした事でした。金光様の先生に憧れると言った様な、黒衣を着ると言う事に憧れを持つという程しの内容を持っておるんだ。
だからこれは、私の信心も、若い人達に聞いてもらわなければ、いろんな勉強をしたり、又はね、これが本当だと思い込んでおる様な人達に、うんにゃ、それは違う、こうですと言うても、なかなか分かりゃせんです。本当に、若い世代の方達に、合楽の信心を、いよいよ分かって貰わんならんなぁと言うような気が、この手紙やら葉書を読まして頂いてから思いました。
この人の書いてる手紙の一番最初には、どういう事を書いてるかと言うと、拝啓と書くところでしょうかね。それに一番初めに、必ず「栄光在天」と書いてあります。これはその宗教のキャッチフレーズですね、きっと。ここでも、いろいろあるでしょう、天然地念とか、字引を引いてもない文句なんです。これなんかもそうでしょうね。栄光、神の栄光という訳です。栄光在天。
一生懸命、本心を改まりもし、磨きもし、その神様との関係、かかわり合いも、段々分かって来てです、世のお役に立たして頂いておるという事に、喜びを持っておる訳です。例えばわざわざ父親が、千葉県まで呼びに行っても、逃げ隠れして出て来ない位に、こちらに熱中してる訳です。そして、この手紙の中にですね。素晴らしい事が書いてある。「ささやかな幸福は、ささやかな事件で崩れる」と、素晴らしいでしょう。
ささやかな幸福。只、おかげおかげの世界というのだったら、おかげでないと思うたら、もうその信心が途絶えてしまうという事なんです。また信心がないならば、マイホーム的な幸せというものは、何かそこに事件が起ったら、必ず崩れる。「決して崩れる事のないものを培っていかなければなりません」とこう言っております。決して崩れる事のない信心を培ってゆかなければならんと言っている。それを私はどう言っておるかと言うと、小さな信心は行き詰まると言っております。
大きな信心には行き詰まりがない。そこを通っておる訳です。誰が何と言うてもびくともしません。これは本当にそうです。信心を抜きにして幸せを人間の知恵、力で築いた幸せなどというものはそれはもう実にもろいものです。所謂ささやかな幸福です。だからささやかな事件が起こると、もうそれで崩れてしまいます。決して崩れる事のないものを培ってゆかねばなりませんという事は事実ですけれども、決して崩れる事がなかっても御徳を受けられないような事に、焦点が置いてあったんでは惜しいでしょう。
只、例え迷うておっても、花の中であるとか、例え、地獄の中にあっても、やっぱり天地の親神様の懐の中だというような事ではないのです。金光教の信心でここのところが分かったら、もう必ず御徳を受けるです。そういう心で向こうたら、神は向こう倍力の徳を授けると仰せられるのですから。その徳にはです、人間の幸せの条件の全てがです。しかも、限りなく頂いて行けれるという道なのです。
金光教の信心は。違うでしょうが。だからです、違うけれどもです、私共が、おかげに終始したら、それは彼達が言うようにです。金光教の信心は低級だと言う。かと言うていよいよ苦しゅうなって来ると、御利益の頂けれるなら、お願いしてくれ、自転車が盗られたと、その話からそうなるんです。人間の本当の、本音というものはです。やはりおかげを頂かなけりゃならんのです。病気をしておるなら、全快のおかげを頂きたい。お金に難儀をしとるなら、お金に不自由せん位のおかげを受けたい。
人間関係がもつれにもつれておるなら、人間関係の上にも、平和なおかげを頂きたい。これは人間の願いなんです。真底からの願いなんです。だからそういうところを、教祖が教えられる生き方をもって、信心をさせてもらうならばです。それには神様が打ち向こう倍力の徳を授けて下さる。只おかげおかげで、御利益を受けられるという事だけで、もしそれが、一生かかって、皆さんが信心をなさってもです。
それには御徳は受けられないです。金光教の信心に、この人がここに書いておるような、これを金光教の行き方で、この行き方にならせて頂いたら、素晴らしい御徳が受けられるだろうと思います。親を思い、兄弟を思い。しかもその親に、本当な親孝行がしたいので、現在は、只、神の道一本に絞って修行しておるというのです。決して崩れる事のないものを培いつつある訳なんです。私共もそうでしょうが、その決して崩れる事のない、真の信心を培いつつ、もし信心を進めていったら。
神様は、必ず倍力の徳を与えて下さるです。その倍力の徳が素晴らしいのです。金光教の場合は。人間の幸せの無条件の全てが足ろうというのですから。それは私が言っとる訳ではないけれどもです。私共の先輩先覚の方達が、そういう徳を受けて、おかげを受けておられるという事実をです。手本にし、ここでは私が、おかげを受けておる信心、又はおかげを、一つの手本としてです。皆さんが信心を、身に付けて下さるならばです。それが、天地の守りじゃからとおっしゃる。
私共の守りをして下さっておる、御守護をして下さておる神様のお喜びは、又、ひとしおなんです。もう俺は地獄の中でも、ちゃんと悟りを開いとるけん。もう迷いに迷いよるばってん、桜の花の中じゃからというのを見て、親が果して喜ぶだろうか。もう一つ向こうにある信心。教祖は、その神様の、心の底に触れられておられる、信心であるという事が分かります。それに触れて、私共が、徳を受け、おかげを受けてゆけれるという信心。金光教の信心を頂いておりましてもです。
それが真の信心につながっていないと、ささやかな、只おかげに甘んじておりますとです。ささやかな事件がありますと、崩れておるという事実が沢山あるでしょう。どのような事があっても、決して崩れない程しのものを培って行く程しの信心をです。合楽で鍛えたら、絶対に御徳が受けられる。だから御徳を受けてゆくところの信心を、本気で一つ分からせてもらい。真とは本当な事だと。その本当な事を身に付けて行くところの信心。その本当な事にはです。
神様の心の底にあるところの、氏子信心しておかげを受けてくれよという、親心の情がです。おかげという形になって現れてくるです。そういうおかげを頂いてゆかねばならん。些細な事で、どういう事が起ってもです。びくともせん、動かんですむという信心が、金光教の信心です。本当の教祖が教えておられる信心なんです。けれども、それで崩れるとするならば、それは本当なものではない。只金光教の信心の、人から笑われても低級だと言われても仕方がない信心を、頂いておるという事になるのです。
だから金光教の信心はね。ズバ抜けて素晴らしいという事です。人から低級と言われても仕方がないという、その両面を持っておるという事。だからその素晴らしい、図抜けた面を、身に付けていかなければです。教祖様にも天地の親神様に対しても、あいすまんという事になるんです。あらゆる宗教が説いておる、それは本当に素晴らしい素晴らしい、本当に、まるきり合楽で説いておるような事を説きなさるねと、言いなさるねというような話は、どこの話聞いたっちゃ同じ事という人が、確かに同じ事です。
けれども、行き着く所が違う。それを、私共が、拝ませて頂いておる神様は、神は天地の守りじゃから、離れる事は出来んと仰せられる、神様へ向かっての信心。だからその神様の真情に触れた時に、神様の御信用、倍力の徳を身に付ける事が出来る。その徳があの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけ、そして栄光在天神の栄光は、天にまします何々様かの所に行った時に、幸せになるといった様なものではなくて。だから栄光在天等というものが、大変な若い人の魅力らしいですね。
やっぱり若い人達は、純粋ですからね。ですからしかも言うておる事は、話しておる事、お書物に書いてある事が素晴らしいのですから。それにやっぱ飛び付いてそして一生を、それで台無しにするような事になりはしないかと思うですね。只苦しい中にあっても、それは、あの世で、栄光を受ける事の為にと言うて、死んでいかなければならない。そして、果して、あの世で受けるか受けないか、それもまだ分からんのです。
この世で開かせて頂く喜び、これならば、あの世に持って行く事が出来るだろう、という確信が出来るのが、私は本当だと思うのですけれども。だから、私共はです。本当にこういうような、迷うたと言うかね、本当ではない信心。言うなら迷うとる信心ですたい。「吉野山 踏み迷うても 花の中」というような悟りを開いて行っておるのですから。迷い通しに迷うとかにゃいかん。どんなに苦しかっても、この苦しいところも、神様の懐の中だと思うて喜んでおる。
果して、それでいいだろうか。しかしそういう事を本当と思い込んでおる様な人達にも、分からせる為にもです。金光教の、ズバ抜けて素晴らしいという、信心を身に付けなければです。和賀心時代を創る運動員になる事は出来んと思うですね。本当に和賀心時代を創って行くというような、偉大な信心。しかも、その和賀心には、おかげがあると仰せられるのが、教祖金光大神が説かれた信心なんですよね。
どうぞ。